もう、無理したり否定をしなくていいだろう
また、やってしまった。
・人に嫌われてしまった。(私が嫌で離れていく人。)
・人を傷つけてしまった。私を不快に怪訝に思うだろうから、もう会えない。
・何でこいつはもっと協力しないのかと思われているだろう。
せっかく真っ当なやり方で、真っ当に吟味し選択し、真っ当に生きる温かい方たちに会うことが出来、穏やかに感謝して生活することが出来ているのに、
結局どこにいっても同じ。うまく人と関われないし、傷つけて嫌われて、役立たず(非協力的)と思われて、
・・もう、どこに行ったらよいのだろう。
こんな風に、考えてしまうことの多いこの頃でした。
不安や猜疑心。
この世は因果。過去の選択の結果が今現れている。
(上記1番目に記述の人は私が相当嫌で離れていくという訳ではないようだ、という実際の状況を目の当たりにし混乱しつつ、)
もしかして、自分を否定してきたことの結果が、「何処に行っても駄目だ。」という考え(思い込み)を生んでいるのかもしれない、と思いました。
こんな家族ではだめだ。
こんな田舎にいてはだめだ。
こんな特技資格が何もない自分ではだめだ。(実際は何もない訳ではなく持っているものもあるのですが。)
そう思って、手に職をつけるため学校に通ったり、都会に住んだり、あちこち行ってみたり、イベントに参加したり、沢山のSNSに登録したり、
してきました。とにかく派手だったり、華やかだったり、特別であることを目指していた。
人に「自分が楽なもの、気楽なものを選んでもいいよ」と言われても、
向上しなくちゃだめだ、磨かなくちゃだめだから楽なものは選べないよ、技術がなくちゃだめだよ、
と好意的に(肯定的に)その言葉を受け取ることができずに来ました。
でも、ほんとうは、違うのかもしれない。
私が駄目なのではなく、私が駄目、このような状況では駄目と自分や周りを否定し続けてきたから、
今、苦しむことになっているのかもしれない。
強くならなくちゃ、鍛えなくちゃと、都会に住み、人ごみに行き、人前に出るようにし、ビジネスをやって、人と繋がり(知り合いを増やし)、
そういう思考で生きてきた。
実は思い返すと、今住んでいる場所に住むことを決める際も、その思考を残し持ったまま、選択していました。(田舎で大丈夫かなぁ、閉塞感があるから、少し都会の要素を持つ人と知りあうようにしよう。―損得勘定ですね;)
でももう、いいんじゃないかな、私は私で。
今はそう思う。
華やかなものを持たなくても。(例えば見ため的に、技術的に、役職なども。)
都会のイケてる人(誰かもはっきりしないけど)と比べ負けまいとしなくても。
平凡で普通でも。
温かく、平穏に、愛を持って、暮らしていけるように。
そんな視点で、また次の選択時には吟味しようと思います。
自分が自分を受け入れ、楽に自然体で人と関わっていけたら、日常的に感じる苦しさは無くなっていくのではないかと思います。